第二回電王戦を勝手に総括

プロ棋士の大半はもう「勝てない」


先日行われた第2回電王戦において、プロ棋士が1勝3敗1分の成績を残しました。内容は第1局を除いて完敗といってよいと思う。終盤力がモロに出た2、3局や将棋の組立自体及び腰だった4局、無理気味な仕掛けを成立させた5局目など、プロ棋士のメンツ丸つぶれの内容でしょう。

ポナンザ開発の山本さんが言われていた「プロ棋士がある程度失うであろう権威を失う」結果となりました。純粋にプロ棋士スゲェ、という理由は失われたわけです。職人が持つ言語化出来ない超絶技巧が解明され種明かしされた、という感じの。だからってやはりその超絶技巧は人間にとっては誰でも出来るわけではなくやっぱり凄いのだけれど、でも神秘性は失われてしまう。そして失われた。まあしょうがないよ。

人間って局面を読むったって、一直線のケースなら30手先もいけるでしょうが、問題は正確にどれぐらい読めるか。局面や持ち時間、集中力など条件は色々あるけれど、プロ棋士でも正確に読める手は(たぶん)10手程度。コンピュータは最強マシンで1秒間に2億!手読む。局面の評価精度もボナンザメソッドで飛躍的に改善された為、人間が見えている局面より深く、高精度に処理出来るので、プロ棋士の殆どはもう勝てないレベルになった。

「見えている範囲」の差は今後広がる一方なのでプロ棋士がコンピュータに勝てる要素は「ない」。それは既定路線。最善と思って指した手の「先」を読まれてしまう絶望感。望みが絶たれる感覚を味わったのだろうな、三浦九段は。

人間の指す将棋、特にプロが指す将棋の特徴に、含みをもたせる、というものがある。指し手を限定せず相手の出方によっていくらでも対応出来るように、変化の余地のない手順を避ける手を選択する。でもこれって結局相手の指し手なんて無数にあるから、いちいち全部対応を考えるのは無理だから、という消極的な手の選択だといえます。全部手が読めており、見込みがあればあえて含みをもたせる必要はない。コンピュータは一直線にドンドン攻めてきますけれど、そういう指し口なのは「見えている」から。昔の将棋ソフトは手は見えていたけれど手の価値の判断精度が低かったため、沢山読んでも無駄な手を選択してしまうということがあったと。

含みをもたせる、というのはだから手が見える射程範囲が小さい人間らしい知恵なんだろうなと思う。大山15世や米長永世、羽生三冠が得意とする局面の複雑化もコンピュータには原則通用しない。

というわけで、「大局観の精度向上」と「指し手を短時間に大量に読む」というごくごく普通のアプローチの積み重ねにより、将棋を構成する要素の「研究」「勝負」についてはコンピュータが人間を凌ぎました。勿論、例えば持ち時間を人間有利な時間に変える、とか人間と同じ「読みの深さ」に制限するルールを適用する、など人間側に合わせたルール追加・変更の提案は「あり」でしょうが、ハードの進化や追加が前提な現在のルールでは敵いませんね。


人間が残る道


将棋を構成する残りは「芸術性」です。指し手の流れや駒の動きに「美」を感じるのですね。駒が効率良く動いてる様や、活用されていなかった駒が大活躍するような手が指されてると心動かされます。また、手の流れに反して指され、それが絶妙手だったときの驚きや感動は将棋を指してよかったなぁと思う瞬間なのですけれど、そういう将棋をコンピュータが指せるかどうかが今後の課題、というかそっちの分野への進化もして欲しいなと思うのです。

例えば、勝つ手順が複数ある場合、効率を考慮して手を選択するのではなく、手の流れや手順の美しさを優先するようなアルゴリズムの実装を期待しています。コンピュータの読み切りによるアクロバティックな終盤の攻防もそれはそれで面白いですが、そういう分野での進化もして欲しい。

また、藤井九段のような戦法の創造という分野も課題です。新しい価値観の創造はプロ棋士もなかなか成果を出せないものです。だからこそ挑戦のしがいがあると思います。

だけど悩み苦しむプロ棋士の勝負している姿や棋譜は、トータルとしての魅力があるわけで、コンピュータ将棋については、「将棋」というゲームの楽しみ方が増えたと思えばいいのよね。

それでもプロ棋士はコンピュータに敗北したことにより、今までの矜恃は捨てなくてはならなくなった。「大人」になるための通過儀礼だったのかもしれないけれども。だからまあケジメとして、タイトルホルダーが番勝負を受ける必要があると思うよ。来年(2014年)ぐらいならまだ勝てるかもしれないから、渡辺三冠との番勝負を希望しますが、新聞社がいい顔しますかね?